紙の歴史 II
天津教古文書の批判 II

2006年09月30日

 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「あのときの王子くん」26 大久保ゆう訳

26

 井戸のそばに、こわれた古い石のかべがあった。つぎの日の夕がた、ぼくがやることをやってもどってくると、とおくのほうに、王子くんがそのかべの上にすわって、足をぶらんとさせているのが見えた。その子のはなしごえもきこえてくる。

「じゃあ、きみはおぼえてないの?」と、その子はいった。「ちがうって、ここは!」

 その子のことばに、なにかがへんじをしているみたいだった。

「そうだけど! そう、きょうなんだけど、ちがうんだって、ここじゃないんだ……」

 ぼくは、かべのほうへあるいていった。けれど、なにも見えないし、なにもきこえない。それでも、王子くんはまたことばをかえしていた。

「……そうだよ。さばくについた、ぼくの足あとが、どこからはじまってるかわかるでしょ。きみはまつだけでいいの。ぼくは、きょうの夜、そこにいるから。」

 ぼくは、かべから二〇メートルのところまできたけど、まだなにも見えない。

 王子くんは、だんまりしたあと、もういちどいった。

「きみのどくは、だいじょうぶなの? ほんとに、じわじわくるしまなくてもいいんだよね?」

 ぼくは心がくるしくなって、たちどまったけれど、どうしてなのか、やっぱりわからなかった。

「とにかく、もう行ってよ。」と、その子はいった。「……ぼくは下りたいんだ!」

 そのとき、ぼくは気になって、かべの下のあたりをのぞきこんでみた。ぼくは、とびあがった。なんと、そこにいたのは、王子くんのほうへシャーっとかまえている、きいろいヘビが一ぴき。ひとを三〇びょうでころしてしまうやつだ。ぼくはピストルをうとうと、けんめいにポケットのなかをさぐりながら、かけ足でむかった。だけど、ぼくのたてた音に気づいて、ヘビはすなのなかへ、ふんすいがやむみたいに、しゅるしゅるとひっこんでしまった。それからは、いそぐようでもなく、石のあいだをカシャカシャとかるい音をたてながら、すりぬけていった。

 ぼくは、なんとかかべまでいって、かろうじてその子をうけとめた。ぼくのぼうや、ぼくの王子くん。かおが、雪のように青白い。

「いったいどういうこと! さっき、きみ、ヘビとしゃべってたよね!」

 ぼくは、その子のいつもつけているマフラーをほどいた。こめかみをしめらせ、水をのませた。とにかく、ぼくはもうなにもきけなかった。その子は、おもいつめたようすで、ぼくのことをじっと見て、ぼくのくびにすがりついた。その子のしんぞうのどきどきがつたわってくる。てっぽうにうたれて死んでゆく鳥みたいに、よわよわしい。その子はいう。

「うれしいよ、きみは、じぶんのからくりにたりないものを見つけたんだね。もう、きみんちに帰ってゆけるね……」

「どうして、わかるの?」

 ぼくは、ちょうど知らせにくるところだった。かんがえてたよりも、やるべきことがうまくいったんだ、って。

 その子は、ぼくのきいたことにはこたえなかったけど、こうつづけたんだ。

「ぼくもね、きょう、ぼくんちにかえるんだ……」

 それから、さみしそうに、

「はるかにずっととおいところ……はるかにずっとむずかしいけど……」

 ぼくは、ひしひしとかんじた。なにか、とんでもないことがおころうとしている。ぼくは、その子をぎゅっとだきしめた。ちいさな子どもにするみたいに。なのに、それなのに、ぼくには、その子がするっとぬけでて、穴におちてしまうような気がした。ぼくには、それをとめる力もない……

 その子は、とおい目だったけど、そのことをちゃんと見ていた。

「ぼくには、きみのヒツジがある。それに、ヒツジのためのはこもある。くちわもある……」

 そういって、その子は、さみしそうにほほえんだ。

 ぼくは、ただじっとしていた。その子のからだが、ちょっとずつほてっていくのがわかった。

「ぼうや、こわいんだね……」

 こわいのは、あたりまえなのに! でも、その子は、そっとわらって、

「夜になれば、はるかにずっとこわくなる……」

 もうどうしようもないんだっておもうと、ぼくはまた、こころがぞっとした。ぼくは、このわらいごえが、もうぜったいにきけないなんてことが、どうしても、うけいれることができなかった。このわらいごえが、ぼくにとって、さばくのなかの水くみ場のようなものだったんだ。

「ぼうや、ぼくはもっと、きみのわらいごえがききたいよ……」

 でも、その子はいった。

「夜がくれば、一年になる。ぼくの星が、ちょうど、一年まえにおっこちたところの上にくるんだ……」

「ぼうや、これはわるいゆめなんだろ? ヘビのことも、会うことも、星のことも……」

 でも、その子は、ぼくのきいたことにこたえず、こういった。

「だいじなものっていうのは、見えないんだ……」

「そうだね……」

「それは花もおんなじ。きみがどこかの星にある花を好きになったら、夜、空を見るのがここちよくなる。どの星にもみんな、花が咲いてるんだ……」

「そうだね……」

「それは水もおんなじ。きみがぼくにのませてくれた水は、まるで音楽みたいだった。くるくるとロープのおかげ……そうでしょ……よかったよね……」

「そうだね……」

「きみは、夜になると、星空をながめる。ぼくんちはちいさすぎるから、どれだかおしえてあげられないんだけど、かえって、そのほうがいいんだ。ぼくの星っていうのは、きみにとっては、あのたくさんのうちのひとつ。だからきみは、どの星もみんな、見るのがすきになる……みんなみんな、きみの友だちになる。そうして、ぼくはきみに、おくりものをするんだよ……」

 その子は、からからとわらった。

「ねぇ、ぼうや、ぼうや。ぼくは、そのわらいごえが大すきなんだ!」

「うん、それがぼくのおくりものだよ……水とおんなじ……」

「どういうこと?」

「ひとには、みんなそれぞれにとっての星があるんだ。たびびとには、星は目じるし。ほかのひとにとっては、ほんのちいさなあかりにすぎない。あたまのいいひとにとっては、しらべるものだし、あのしごとにんげんにとっては、お金のもと。でも、そういう星だけど、どの星もみんな、なんにもいわない。で、きみにも、だれともちがう星があるんだよ……」

「どういう、こと?」

「夜、空をながめたとき、そのどれかにぼくがすんでるんだから、そのどれかでぼくがわらってるんだから、きみにとっては、まるで星みんながわらってるみたいになる。きみには、わらってくれる星空があるってこと!」

 その子は、からからとわらった。

「だから、きみのこころがいえたら(ひとのこころはいつかはいえるものだから)、きみは、ぼくと出あえてよかったっておもうよ。きみは、いつでもぼくの友だち。きみは、ぼくといっしょにわらいたくてたまらない。だから、きみはときどき、まどをあける、こんなふうに、たのしくなりたくて……だから、きみの友だちはびっくりするだろうね、じぶんのまえで、きみが空を見ながらわらってるんだもん。そうしたら、きみはこんなふうにいう。『そうだ、星空は、いつだってぼくをわらわせてくれる!』だから、そのひとたちは、きみのあたまがおかしくなったとおもう。ぼくはきみに、とってもたちのわるいいたずらをするってわけ……」

 そして、からからとわらった。

「星空のかわりに、からからわらう、ちいさなすずを、たくさんあげたみたいなもんだね……」

 からからとわらった。それからまた、ちゃんとしたこえで。

「夜には……だから……来ないで。」

「きみを、ひとりにはしない。」

「ぼく、ぼろぼろに見えるけど……ちょっと死にそうに見えるけど、そういうものなんだ。見に来ないで。そんなことしなくていいから……」

「きみを、ひとりにはしない。」

 でも、その子は気になるようだった。

「あのね……ヘビがいるんだよ。きみにかみつくといけないから……ヘビっていうのは、すぐおそいかかるから、ほしいままに、かみつくかもしれない……」

「きみを、ひとりにはしない。」

 でも、ふっと、その子はおちついて、

「そっか、どくは、またかみつくときには、もうなくなってるんだ……」

 

 あの夜、ぼくは、あの子がまたあるきはじめたことに気がつかなかった。あの子は、音もなくぬけだしていた。ぼくがなんとかおいつくと、あの子は、わき目もふらず、はや足であるいていた。あの子はただ、こういった。

「あっ、来たんだ……」

 それから、あの子はぼくの手をとったんだけど、またなやみだした。

「だめだよ。きみがきずつくだけだよ。ぼくは死んだみたいに見えるけど、ほんとうはそうじゃない……」

 ぼくは、なにもいわない。

「わかるよね。とおすぎるんだ。ぼくは、このからだをもっていけないんだ。おもすぎるんだ。」

 ぼくは、なにもいわない。

「でもそれは、ぬぎすてた、ぬけがらとおんなじ。ぬけがらなら、せつなくはない……」

 ぼくは、なにもいわない。

 あの子は、ちょっとしずんだ。でもまた、こえをふりしぼった。

「すてきなこと、だよね。ぼくも、星をながめるよ。星はみんな、さびたくるくるのついた井戸なんだ。星はみんな、ぼくに、のむものをそそいでくれる……」

 ぼくは、なにもいわない。

「すっごくたのしい! きみには五〇おくのすずがあって、ぼくには五〇おくの水くみ場がある……」

 そしてその子も、なにもいわない。だって、泣いていたんだから……

 

「ここだよ。ひとりで、あるかせて。」

 そういって、あの子はすわりこんだ。こわかったんだ。あの子は、こうつづけた。

「わかるよね……ぼくの花に……ぼくは、かえさなきゃいけないんだ! それに、あの子はすっごくかよわい! それに、すっごくむじゃき! まわりからみをまもるのは、つまらない、四つのトゲ……」

 ぼくもすわりこんだ。もう立ってはいられなかった。あの子はいった。

「ただ……それだけ……」

 あの子はちょっとためらって、そのあと立ち上がった。いっぽだけ、まえにすすむ。ぼくはうごけなかった。

 なにかが、きいろくひかっただけだった。くるぶしのちかく。あの子のうごきが、いっしゅんだけとまった。あの子は、そうっとたおれた。木がたおれるようだった。音さえもしなかった。すなのせいだった。

★この文章を書いた人→大久保ゆう★こんな時間に→2006年09月30日 08:31 ★トラックバック
 コメント

『Newton』10月号「機械翻訳の未来はどうなる?」という記事を読みました。それによると、今年3月から情報通信研究機構と京都大学のグループを中心に「言語グリッド」というプロジェクトはじまる、とあります。もしかして、ゆうくんもこれに一枚かんでるんですか? もしなにか知ってることがありましたら。(王子様がらみの話題でなくてすいません)

Posted by: しだ at 2006年10月01日 12:10

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